昭和五十四年六月十五日 朝の御理解 御理解 第二十七節 「昔からあの人は正直者ぢゃ神仏のやうな人ぢゃと云う者でも 段々不幸な事が重なって世間ではどう云うものであらうかと 云うやうな事があろうが何程人に悪事をせぬ正直者
ナも人が 善いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ」 私は、教祖様の教えの深さとか、広さとかというものを、限りなく感じるのですけれども、この、み教えだけは大変あさーい。言うなら、視点と言うかね、事点で説いてあるみ教えだと思うのです。
でも、信心しておかげを受ける。
世間では神・仏のような、と言うのぢゃない、本当に世間では、鬼のような人、と言われるような人でも、信心しておかげを受けておる、と言う事実があると言うことですよね。だから、そういうのは、私の話を聞いて下さっただけでも、そうだと合点がいくでしょうが。
一番わかるのは、自分というものを見れば一番わかる。お取次を頂いてお願いすれば、私のごたる浅はかな、私ぐらい穢い人間でも助かっとる、と言う事実を、これを見たが、大体一番わかるですよね。
だから世間では、仏様・神様のような人でも、次々難儀な事がおこるとどうした事であろうか、と言うように、ね。信心をしておっ ても、次々難儀な事がおこってくると、世間ではあれだけ信心しござるのに、どうしてぢゃろか、ということにもなるわけです。ね。
だから、ちょっと言うならば、神様が、ま、何と言うでしょうかね。目先、目先のおかげの世界ですけれども、どういう人でもお取次を頂いてお願いをして、ハァーやっぱこれがおかげぢゃろ、と、やっぱこれがおかげ、と、こう思うようなおかげを受ける、と言う事実。そういう意味で、このご理解を頂きますとね。もう、この教えはここまで、という感じがしますね。浅い、ね。
けども、信心しておっても、んなら、次々難儀な事がおこってくるのに、どうした事であろうか、と世間では言うような事があろうが、と、ここ辺のところと替えてみるとですね、いわば、教えが、金光教の信心の深さ、というか、広さというものを感じます。今日はね、そういう視野に立っての、このご理解第二十七節を一言、今日は聞いて頂こうと思います。
結局、私思うのに、お道の信心は教祖様のみ教えを頂いて、それを守って、おかげを受けていく、というおかげなら、これは、もうまちがいのないおかげですよね。教祖様は、心を汚せ、とか悪人になれ、とかという教えはいっちょんないとですから。もう「信心は日々の改まりが第一じゃ、本心の玉を研くのが信心じゃ」と説いておられるのですから、み教えを私共が頂いて、そして、それを人に伝えていく、おかげを頂いて人に伝える「本当ですねぇ。お宅はやっぱり信心しなさるけん、おかげ頂きなさるですね。」と、「そんなら私も、いっぺん連れて行って頂こうか。」と、言うような事になってくるわけです。
昨日は、岡山の方からの団体参拝がございました。こちらのお話も聞いて頂いて、三時からの先生方の研修にも参加してもらって、一人、二人、発表してもらいました。もう、本当に私は感心しましたが、五分位な話で、もう、素晴らしいお話をなさいました。二人の若い青年と言うでしょうかね。まだ、三十位の方達が二人。
一人の方が、「私は、こちらにご神縁を頂いて、一番初めに、商売をいたしとりますから、どうぞ商売大繁昌の大みかげを頂きますように。」と、言うてお取次を願いました。ね、そしたら「お商売の大繁昌を願う前にね、あなたの扱っておられる商品とお話合いが出来るようにならなきゃいけませんよ。」と、先生が言われた。
意味がわからなかったけれども、あとでお話を頂いて合楽ではそれこそ「お野菜と話の出来る人がおられるげな、食料品屋さんが、その乾物の一つ一つとお話し合いができなさる。」と、言う話を聞かせて頂いた、ね。結局「商品の心がわからなければ、繁昌にはつながらない。」と、言う事を頂いて「どういうようにしたならば、商品と話し合いが出来ることになるだろうか。」と、いうことだけをもう、どの位になるでしょうかね、ここにお参りされるようになってですから。いつも参って見えるけれども、その方はじめて発表してましたが、ところがねそれを一生懸命「商品と話し合いが出来るように。」と、いう思いを頂いておりますとね。段々「もしか、これが商品の声であろうか、という感じがね、するようになった。」と、話しております。ね。 その方は呉服屋さんなんです。=まあ、こういう先日は体験がございます。下着の柄の、品物はいい物だそうですけれども、それが柄がよくないとか、色がよくないとか、と言うので、もう、言うならば、下積みになって売れない、それを整理しよる時に、その反物が、ハァこれはこんなに下積みになっとったんでは、もしこれに心があるとするなら上の方へ、お客さんの見える所へ出してくれ、と言うにちがいない。同時に、下着に着てもらうよりか、上着に着てもろうたらもっと嬉しい、と、その反物が言ってるような感じがいたしました。それで、それを店先に出させてもらいしとりましたら、お琴の先生をなさる方が見えて、「今度、舞台で着るような着物を見せてくれ。」と、言われていろいろ見せたけど気に入らん、そこへその下に着る反物が「ああ、これがいい。」と、言うて、それを買うていかれました。そして、仕立てて、「大変、舞台で晴れた」と、言うて喜んで下さった時にですね、本当にその反物が喜んでくれて、お礼を言われとるように思った。それだけの話でした。ね。
「私は、この行き方を商品の一反一反に思いをかけさせて頂く稽古をさせて頂いておる。」と、言うのである。「教えを守って、もうお互い話を長くすることはいらんですね。いろいろくどらしく言わんで、親先生から教えを頂いた。その教えをその事だけを頂き続けておる。」とこう言う。そして、「そういうおかげを頂いておる。」とこう言うのである。だから合楽の方達の場合は、ね、あんまり教えがふんだんにありすぎて、どれを守っていいやら、わからんごつなっとっとじゃなかやろうか、と言うふうに私は思った。ね。
本当にね、教えが生々としてその人に伝わっておる、と言うことを思います。昨日、これは宮崎から電話がかかって参りました。
十三日会を宮崎で、十三日会をいつもさせて頂いておられます。「昨日は、その宮崎の十三日会に参加させてもろうて大変おかげ頂いた。」と、こう言うのである。今、もう人間関係、経済の面でも大変難儀をしておられる方なんです。その方がある人の発表を聞かせて頂いておる時に、「翻然として、自分の心の中にひらけてくるものがあった。」と、言うのです。と言うのは、この方が、大変な難儀な中からお取次を頂いて、熱心に合楽にもお参りをされる。おかげを受けられて、そしてそのおかげの、その、ま、言うならば、おかげを頂いた事を話されて、「この有難いおかげに対して、どういう修行をさせて頂いたら、お礼になるだろうか。」と、「も、その事ばかりを明け暮れ考えておる。」と言う、お話があったそうです。
皆さん、そんなことを聞いて、何か感じることないですか。「やっぱ感じるんです。フィーリングです。その時に翻然としてわからせて頂いた。」と、こう言うのです。「も、その事が有難うして有難うしてたまらんごとなって、電話で一言お礼を申し上げねば。」と言うので、昨日はお礼の電話がかかってきた。ね。
「この人は「おかげを頂いて、そのお礼にどげな修行をさせて頂いたらよかろうか。」と言うて、修行をさがしよんなさるけれども、私はさがさんでも求めんでも、今、こういう素晴らしい修行が、右にも左にも前にも後ろにもあるでわないか。ち、思うた。」ち。そしたら、「神様ありがとうがざいます。と言うてお礼を申させて頂いたら、昨夜からの感激が今日まで続いとる。」と、こう言うのです。ね。
「人は、どげな修行させて頂いたらよかろうか、と思うて、修行をさがすとに苦労しよんなさるとに、こちらは一つも、も、神様が求めてござる修行。」と、こう頂かれたわけでしょうね。
「私は、さがさんでも求めんでも、今、こうして修行が右にも左にも前にも後にもいっぱいある、と言うことを、苦労の中にある、苦労のまん中と思うたら、苦しいことであったけれども、求めんでも神様が与えておって下さるこの修行を、いよいよ合掌して受けていこうという気にならせて頂いたら、もう、心から有難いものがわいてお礼を申しあげなければおられなかった。」と、言っておられます。私は、「信心は悟りだ。」と言われますが、そうだと思います。ね。
私が、借金の断りにいく。もうそれは、本当にきつい、情けない、それこそ足がそちらの方角に向かない位にあるんだけれども、一つの心の悟りがひらけた時にです、も、それこそ意気揚々として、借金の断りに行けたように、それを境におかげが転開してきたように皆さんがいつも聞いて下さる。
私は、今日はね、「あヽいう神様のような人、仏様のような人ぢゃと言うても、次々難儀な事がおこっておる。どうした事であろうか、と、世間では言う。」と、言うところを、今日は私は、反対にね。「あれほど信心しておるのに、どうしてあげな難儀が続くであろうか。」と、言うような人の場合です。ね。だから、教祖がここに表現なさっておる意味においては、私は金光教の教えの中で一番浅い、と言う、ね、感じの、み教えですけれども。そういうふうに頂いてまいりますと、非常に広い、また深い思いがいたします。
あれほど信心されるのにどうして、と言うような、また自分でもどうしてこんな難儀が続くだろう、と思っておる人がです、一度、言うならば、心がひらけてくる、ということ、心がひらけてくる、と言うことはですね。確かに、涙がこぼれるほど有難うなってくるものですよ。昨日、ある方が月に何回位かしか参って来ませんけど=もう何十年の夫婦生活、大変ご主人は会社の偉いところに勤めておられたけれども、あんまりお酒を飲まれて、ちょっと頭が変になられた時代があった。ところが、また最近、非常にお酒を飲まれる、それで、もうお金はいくらあっても足らん。困るものだから、最近は大豆・・豆の、なんですかね、小豆相場に手を出しとる、と、だからそれを、もう、見ておられん、と。
私が、だからそこまで、私がいっぺんだけお願いするけんで、あとは止めるごと言いなさい、と言うて申しましたが。そのあとに、それだけでは実はございません、こうこうこ言うわけもあって、もう何十年連れそうてきた主人だけれどもね、別れたい、と思う、とこう言うお届けでした。ね。=それで、私は神様にその事をお届けっさせて頂きましたら、幼稚園の子供が歌いますよね、あの、むすんでひらいて・・と言う歌ですね。あれが、私の心耳にひびいてくるんですよ。♪むすんでひらいて・・・その手を上に、と、言うところまで頂いたんです。
結んで、と言うことは、結婚して数十年間、それを、こう ひらいて、別れよう、としている、ね。
ここまでは苦しい。けれどもね、神様にお任せをする、という。
神様の前へ無条件降伏をする、神様に、もうおかげを頂かなければもう手立てはない、と言う、神の前に、その結んだり開いたりする手を上にあげたところから、新たなおかげになってくる、と言う、御理解を頂いた途端にです、もう、それこそ涙をぼろぼろ流して喜ばれました。
「あげな、み教えがあるとは、本当、しらなかった、今日はお参りしたかいがあった」と言って、喜んで帰られました。ね。
「結婚した。それが何十年間、よか時もあったろう悪か時もあったろうけれども、いよいよぎりぎり別れよう、と腹を決めたわけでもなかろうけれども、お伺いする程しに苦しい事になってきた。おかげ頂きたい、と言ってもおかげにならん、だから、もう別れた方がましぢゃなかろうか、という事にまでなってきた。ね。その時に・・・・・むすんでひらいてその手を上に・・あげた時に、そこからおかげになる、という、ね。 「あヽ そうぢゃった。」と、思う心が悟りです。だから、信心しとってどうして、只、信心すればなら、これは自分自信をめいめい見たが一番ようわかる、と言うようにです、「私ぐらいな者でも、こげなおかげを頂いておる。」と言う事実を、まずつきつめること。
「自分な決して、神様のような仏様のような心でもない、のにもかかわらず、神様はそれこそ目をつむって、おかげを下さってあるのぢゃないか。」と思う程しに、おかげは頂いておる。ね。
なるほど、「信心しておかげを受けるのは別物」と言う意味がわかる。それは、そこまでのこと、ね。けれどもそれがね、なら、言葉を少し替えてです、「信心しておっても、次々難儀な事がおこってくると、世間ではどうしたことであろうか。」と、いうような事があるけれども「そこを辛抱していけばよい。」と、いうのぢゃなくて、辛抱していってるうちに、翻然としてひらけるものがある、ね。そこからです、限りないおかげの世界というのが、ひらけてくるのですから。
「初めて信心して、おかげを受けるのは別物」と言うのを、「特別なものだ。」というような、おかげを頂くためにもね、私共が精進しなければならない。それには、なら、福山の方達が、もう一人の方もやっぱり同じ事を言ってました。「一番初めに、そういうご理解を頂いて、それを守り続けて、今日、こういうおかげを頂いておる。」と言う、もう本当に垢ぬけしたお話をしておりましたが、ですね。教えを守って翻然としたものができるところから、本当の、言うならば、「信心しておかげを受けるのは別物。」と言うような、おかげが頂けるようになるんです。ね。それこそ、「別物と言うことは、あつらえたような。」と、いうふうにも言えるかも知れません。ね。
「素晴らしいタイミング。」と、言ってもいいでしょう。そういう別物と感じられる程しの、言うならば、おかげを一つ頂きたいと思う。
今日のご理解には、少しそれたようですけれどもね、信心しておっても、どうして、あヽいうことが続いておるだろうかと、いうような人達が、ここで一つ翻然としたものをね、ひらかせて頂く。ためには本気で教えを頂かなきゃならない。
もう本当に、自分の周囲の難儀ばっかり、「どうして、こんな難儀が続くだろうか。」と、思っておる時にね、ま、言うなら、そう感じられない、まあ、今日私が言ったことを聞いて、大した感じをなさらなかっただろう、と思う。やっぱ、特別なおかげを受けておる時ですよね。
ハァこの人は、「それこそ、修行さがして、どういう修行させて頂いたらよかろうか。」ち言うて、言いよんなさるとに、こちらはさがしも、求めもせんでも、「現在、こういう修行を神様から与えられておるではないか、と思ったら、もう心がうれしゅうなってきた。」というようなね、一つおかげを頂いたら、もうそげな苦労は、いつまでも続かないと、私は思うですね。 「 どうぞ 」